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ローマ美術紀行
サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会
Basilica di Santa Maria sopra Minerva 2015/1/2
ミネルヴァ教会はミケランジェロ、フィリッピーノ・リッピ、アントニアッツォ・ロマーノなどの作品があるので訪れましたが、青天井のフレスコ画、ステンドグラスがきれいだったので併せてご紹介します。
サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会はローマのパンテオン近くに位置する小バシリカのカトリック教会。13世紀末、古代ローマ時代のミネルバ神殿の上にドミニコ会の教会として建造。ローマ唯一のゴシック様式の教会として知られる。フィリッピーノ=リッピによるフレスコ画、ミケランジェロによる彫刻「あがないの主イエス=キリスト」像、アントニアッツォ・ロマーノの「受胎告知」などがある。この教会にはシエナのカタリナやドミニコ会の画家フラ・アンジェリコの墓がある。近代天文学の父ガリレオ・ガリレイは、隣接する修道院での異端審問後の1633年6月22日、この教会で自らの科学的命題を否認した。出典 小学館デジタル大辞泉、ウィキペディアなど
サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会
◆ファサード(建物の正面) Facciata
ローマ初のゴシック様式の教会が1370年に完成した。16世紀末、カルロ・マデルノ(Carlo Maderno、1556年 - 1629年)がバロック建築のファサードにしたが、19世紀に現在の新中世様式(ネオゴシック様式)に改修された。出典: ウィキペディア(日本語版)
カルロ・マデルノ:(1556‐1629ローマ)初期バロック時代のイタリアの建築家,技師。伯父の建築家D.フォンタナの工房で修業し,水路,橋梁の建設,大オベリスクの移設などローマの都市事業で彼の助手を務めたのち,サンタ・スザンナ教会の内装,ファサードを完成させ(1603),建築家としての地位を確立した。サン・ピエトロ大聖堂の造営主任となり,中央会堂形式を改めて長堂を建築し,身廊,玄関廊およびファサードを増築した(1607年―1617年)。後期ルネサンスから初期バロックへの過渡期の重要作家とされる。弟子に甥(おい)のボロミーニがいる。出典:ブリタニカ国際大百科事典 、ブリタニカ国際大百科事典 、平凡社世界大百科事典
◆ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ作「ミネルヴァのひよこ (Pulcino della Minerva)」オベリスク
バロック期の彫刻家ジャン・ロレンツォ・ベルニーニのデザインした彫像(1667年、弟子のエルコール・フェラッタが完成させる)で、ドミニコ修道会の庭で見つかったエジプトのオベリスクをゾウの彫像が土台となって支えている。その逞しい外観から、これに "Porcino"(子豚)というあだ名が付けられていたが、後にイタリア語で「小さなひよこ」を意味する Pulcino に変化した。これは、このオベリスクが短いことを表しているとも言われている。
このオベリスクは元々、紀元前589年から紀元前570年ごろエジプト 第26王朝のファラオであるアプリエスの治世下に建てられたものだった。それをローマに運ばせたのはディオクレティアヌス帝で、紀元284年から305年のことである。
この独特の構成の着想の元になったのは、フランチェスコ・コロンナの作と言われている15世紀の小説『ヒュプネロトマキア・ポリフィリ』(ポリフィルス狂恋夢)と言われている。この小説で主人公はオベリスクを支えている石のゾウに出会う。そしてそこに描かれたイラストは、ベルニーニの設計したオベリスクの土台によく似ている。
出典: ウィキペディア(日本語版)
ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ作
「ミネルヴァのひよこ 」オベリスク
◆サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会見取り図
1.中央扉口
9.受胎告知の礼拝堂
10.アルドブランディーニ礼拝堂
11.ペナフォートの聖レイモンド礼拝堂
15.カラファ礼拝堂
16.ギヨーム・デュランドの葬儀記念碑
17.アルティエリ礼拝堂
18.カプラニカ礼拝堂(ロザリオの聖母礼拝堂)
19.G..オビチG. Obici による洗礼者ヨハネ
20.主祭壇又はシエナの聖カトリーヌの石棺
21.聖歌隊礼拝堂 又はメディチ家礼拝堂
22.ミケランジェロ「あがないの主イエス・キリスト」「復活したキリスト」23.玄関ホール
24.フランジパーネとマッダレーニ・カピフェロの礼拝堂
25.聖具室
26.聖ドミニク礼拝堂
カトリック百科事典 Da Cathopedia, l'enciclopedia cattolica.より借用
◆ヴォールト(アーチ形天井) volta
’13/1月訪れたイタリア・ラヴェンナの『ガッラ・プラキディア廟堂』のモザイク壁画を彷彿とさせる青い天井のフレスコ画が大変気に入りました。
ヴォールト(入口側)
ヴォールト(中間)
ほぼ中央に4人の福音記者、他に預言者、教会博士がを描かれています。
ヴォールト(主祭壇側)
教会の内部は袖廊とアプス(後陣)を備えた、12本の梁柱によって身廊と側廊の3列に分れている。
ドミニコ会の建築家であるジロラモ・ビアンケディGirolamo Bianchediは1848年から1855年の間 、教会の内部を中世の教会に戻す計画を立て、 彼のデザインをもとにアカデミア・ディ・サン・ルカにネオゴシック様式での修復を依頼した。
描いたのはベルナルディーノ・リッカルディBernardino Riccardi(1814-1854)、トンマーゾ・グレギアTommaso Greggia、ピエトロ・ガリアルディPietro Gagliardi(1809-1890)、ラファエレ・カスネディRaffaele Casnedi(1822-1892)だと言われています。
出典:イタリアのサイト”I Viaggi di Raffaella”、及び日本語版、英語版、独語版、イタリア版のウィキペディア
修道士ジロラモ・ビアンケディ frà Girolamo Bianchedi(1802-1849):イタリア共和国エミリア=ロマーニャ州ラヴェンナ県にある都市ファエンツァのドミニコ修道会のコンヴァーソ(修道院の雑務に従事する助修士)で、建築家でした。 出典:ウエブサイト ”Heraldrys Institute of Rome” より
アカデミア・ディ・サン・ルカは、学問を奨励した教皇グレゴリウス13世の時代の1577年に美術家の会としてフェデリコ・ツッカリがフェデリコ・ボッロメオらと設立し、1593年からツッカリが会長となったローマの芸術家協会である。教育と公開の展覧会を通じて、ヨーロッパ各国の美術院のモデルとなった。イタリア統一後、1872年に王立美術院("Accademia Reale")と改名された。1948年に("Accademia nazionale di San Luca”)と改名された。出典:アカデミア・ディ・サン・ルカ - Wikipedia
左側:主祭壇及び聖歌隊礼拝堂、右側:袖廊の右翼にパイプオルガン
(見取り図20-主祭壇,21-聖歌隊礼拝堂,18-カプラニカ礼拝堂,17-アルティエリ礼拝堂)
パイプオルガンは袖廊の右翼と左翼の両側にある。1628年にエンニオ・ボニファジに製作されたが、右側のオルガンは略奪され、左側のオルガンは、1909年に、カルロ・ベゲッツィ・ボッシュ社Carlo Vegezzi Bossiによって大型の空気圧トランスミッション・オルガンに置き換えられ、1999年に復元されました。このような大きなオルガンは、当時のローマでは目新しいかったようだ。
出典:イタリア版ウィキペディア、ウエブサイト”I Viaggi di Raffaella”、サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会公式ホームページより
◆受胎告知礼拝堂(見取り図-9) Cappella dell'Annunziata
アントニアッツォ・ロマーノの絵画も見たくてに当教会を選んだ。聖母マリアと子供たちの大きさの違いにガリバー旅行記を思い出させたが、なかなか良いね。確かに、フラ・アンジェリコの影響をうかがわせる。
受胎告知礼拝堂はフアン・デ・トルケマーダ枢機卿が1460年に、貧しい少女のための「聖母マリアの慈善団体」の拠点として建設させたもの。1600年頃、カルロ・マデルノによってバロック様式に再設計された。出典:Santa Maria sopra Minerva (Rom) - Wikipedia
アントニアッツォ・ロマーノ『受胎告知』(1485年)
L'Annunciazione di Antoniazzo Romano (1485)
アントニオッツォ・ロマーノの『受胎告知』は、テンペラ画(板絵)で彼の最も有名な絵画である。枢機卿トルケマーダに紹介された貧しい女の子に持参金を手渡す聖母が描かれている。出典:ウエーブサイト”I Viaggi di Raffaella: La Basilica di S.Maria sopra Minerva”など
アントニアッツォ・ロマーノ(Antoniazzo Romano, ローマ1430年頃 - 1510年頃)はルネサンス期のイタリアの画家。15世紀のローマ派の中心的人物である。最初はラツィオの地元画家と同じように、ベノッツォ・ゴッツォリやフラ・アンジェリコの装飾法の影響を受けた。 1470年代、バチカン宮殿の装飾を、ペルジーノ、メロッツォ・ダ・フォルリ、ドメニコ・ギルランダイオらと共に手掛けた。中世的な特徴はまだ残してはいたものの、彼らの影響で、彼の絵の人物たちは穏やかな風貌に、衣服も装飾的な模様に変わった。 メロッツォ・ダ・フォルリ - と共に、サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会のフレスコ画を制作し、引き続き、同教会のために『受胎告知』(1482年)を描いた。それ以降のアントニアッツォの作品には徐々にマニエリスムの要素が強くなり、数人の画家たちに模写されたが、模写された絵がアントニアッツォの絵と間違われることがしばしばあった。 アントニアッツォは、ローマの画家・彩飾者のギルドである聖ルカ・アカデミアを創設した3人のうちの1人で、1478年に法規に署名した。出典:アントニアッツォ・ロマーノ - Wikipedia
◆カラファ礼拝堂 Cappella Carafa (見取り図-15)
フィリッピーノ・リッピの作品。壮大なスケールで描かれた作品、良いね!
カラファ礼拝堂(”受胎告知”と”聖母の被昇天”)
15世紀末のカラファ礼拝堂は枢機卿オリヴィエロ・カラファが聖トマス・アクィナスに捧げたもので、フィリッピーノ・リッピによるフレスコ画がある。”受胎告知”と”聖母の被昇天”などが描かれている((1488年)~1493年)。1493年に開館したもので、聖トマス・アクィナスの礼拝堂とも呼ばれている。この礼拝堂にトマス・アクィナスの遺骨が安置されていたが、1511年にナポリに移された。同じナポリの名家カラファ家出身で枢機卿オリヴィエロ・カラファの従弟である教皇パウルス4世の墓もこの礼拝堂にあり、1559年にピッロ・リゴーリオが設計した。
枢機卿オリヴィエロ・カラファはナポリの名家、カラファ家の出身で、同じカラファ家で従弟の教皇パウルス四世(Paulus Ⅳ1476-1559)を後押しした。
出典:サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会 - Wikipedia、パウルス4世 (ローマ教皇) - Wikipedia
フィリッピーノ・リッピ ”聖母の被昇天”
Assunzione della Vergine (Filippino Lippi)
カラファ家の紋章
Carafa - Wikipediaより借用
ドラムを持つ天使
(”聖母の被昇天”の詳細)
メロッツォ・ダ・フォルリ作 サンティ・アポストリ教会天使像(バチカン博物館・ピナッコテカ)’15/1/04撮影
聖母が正面で伝統的な方法で表現され、聖母の周りを踊る楽団の天使たちに大きな動きが見られる。その天使はメロッツォ・ダ・フォルリのフレスコ画を模倣しているようで、下方の視点で描かれている。左反時計回りには、タンバリンを持つ天使、トロンボーンを持つ天使、プサルテリウムを持つ天使、次にトーチを持つ3人の天使が雲を押し雲を押すトーチを持った3天使、そして腰に太鼓を結んだ天使、トライアングル(この絵は台形ですが)、もう1つはバグパイプを持っています。 太鼓は、平行な白と赤のバンドで飾られており、カラファ家の紋章を表している。
出典:Cappella Carafa - Wikipedia
フィリッピーノ・リッピ ”受胎告知”
Annunciazione(Filippino Lippi)
本来、”受胎告知”の絵画だが、聖トマス・アクィナスがカラファ枢機卿を祝福されたマリアに紹介する様子も描かれている。出典:サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会 - Wikipedia
フィリッピーノ・リッピ( 1457-1504 )は、初期ルネサンス後期と盛期ルネサンス初期のイタリアの画家。父は修道士であり、画家のフィリッポ・リッピ、母は修道女であり、父の聖母子像のマリアのモデルにもなったルクレツィア・ブーティで、非嫡出の息子。プラート(フィレンツェ)で生まれる。
父親の下で教育を受け、1469年に父親が亡くなると、父の弟子であったサンドロ・ボッティチェリの工房で画業を修める、さらに弟子になり、ボッティチェリの影響を強く受ける。メディチ家お抱えになり、特に、ボッティチェリと共にフィレンツェの黄金期を築いたロレンツォ・デ・メディチにひいきにされた。
初期の作品はボティチェリに近いが,1480年頃から明るい色彩のより個性的な作風を確立。フィレンツェ,ローマで多くの壁画を制作した。後期の作品は装飾的で,トスカナ地方のマニエリスム的傾向を発展させた。1486年ころ,代表作《ベルナルドゥスの幻想》を制作。続いて1500年前後の約10年間に,フィレンツェのサンタ・マリア・ノベラ教会ストロッツィ礼拝堂や,ローマのサンタ・マリア・ソプラ・ミネルバ教会カラッファ礼拝堂に大がかりな壁画を制作し,名声を博す。
出典:フィリッピーノ・リッピ - Wikipedia、ブリタニカ国際大百科事典、(株)平凡社世界大百科事典
◆ギヨーム・デュランの葬儀記念碑(ジョバンニ・ディ・コスマ) (見取り図-16)
monumento funebre di Guillaume Durand (Giovanni di Cosma )
久しぶりにモザイク画を見ました。かなり破損していますが、なかなか良かった。
ジョバンニ・ディ・コスマ”ギヨームデュランドの墓”1296年
ジョバンニ・ディ・コスマの作品である1296年に亡くなったメンデの司教ギヨームデュランドの葬儀の記念碑は、以前、アルティエリ礼拝堂(見取り図-17)にあったが、1670年翼廊の右腕の隣接する頭壁に移された(見取り図-16)。
出典:CBC Conservazione Beni Culturali(CBC・文化遺産の保存/修復中央研究所)の芸術速報
ジョバンニ・ディ・コスマ(? - ローマ、1305年頃)はイタリアの彫刻家であり 、一般的にコスマティと呼ばれるローマの大理石墓碑職人の同業組合に所属し、13世紀の終わりに活躍した。父のコスマ・ディ・ピエトロ・メリニの工房で彫刻とモザイクの芸術を学び、おそらく長い間協力し合い、13世紀末に独立した。アルノルフォ・ディ・カンビオ(Arnolfo di Cambio 1245年頃 - 1302年または1310年頃)のゴシック様式の影響を受けた。コスマティはローマの3つの葬式の記念碑に彼の署名を残しました。そのため、彼の芸術とスタイルを明確化できた。出典:Giovanni di Cosma - Wikipedia イタリア版
◆カプラニカ礼拝堂(見取り図-18) Cappella Capranica
カプラニカ礼拝堂はステンドグラスに引き付けられた。
カプラニカ礼拝堂
聖母戴冠式を描いたステンドグラス(19世紀)
カプラニカ礼拝堂は「ロザリオの礼拝堂」とも呼ばれている。1451年から1855年までシエナの聖カタリナ廟礼拝堂でした。人道主義者で神学者の有名なドメニコ・カプラニカ枢機卿によって改修されました。ロザリオの聖母への奉献は1579年に行われました。祭壇の上のルネットの窓には、キリストによる聖母戴冠式を描いたステンドグラス(19世紀)がある。出典:サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会 - Wikipedia、Santa Maria sopra Minerva | Churches of Rome Wiki、Santa Maria sopra Minerva - Wikipedia
◆主祭壇(見取り図-20) l'altare maggiore
主祭壇
(奥は聖歌隊礼拝堂またはメディチ家礼拝堂)
◆ミケランジェロ『ミネルヴァのキリスト』(1519/1520) (見取り図-21)
Cristo della Minerva (Michelangelo 1519/1520)
ミケランジェロの有名な作品ですが、ミケランジェロのサン・ピエトロ大聖堂の”ピエタ”,フィレンツェの”ダビデ”などと比べるのがいけないのでしょうが、私はやや物足りなさを感じがした。
ミケランジェロ”ミネルヴァのキリスト”(1519/1520)
”ミネルヴァのキリスト”、”復活したキリスト”、”救世主キリスト”、”贖い(あがない)のキリスト)”、または”十字架を持つキリスト”とも呼ばれ、1521年に完成したミケランジェロ作品と言われている。
”十字架を持つキリスト”は二作目(通称”ミネルヴァのキリスト”)です。一作目は1514年にローマの貴族メテッロ・ヴァリMetello Variによって委託され、製作中に顔に黒い亀裂が発見されたため、中断した(通称、”ジュスティニアーニのキリスト”)。ミケランジェロは二作目を1519年にフィレンツェで作業し、ローマへの移動と最後の仕上げを見習いピエトロ・ウルバーノに委ねられたが、台なしにしたため解雇した。次にフェデリコ・フリッツィという人に任され、完成した。ミケランジェロは三作目を希望したが、却下!現在も二作目が同教会にある。
出展:英語版 ウィキペディア”Risen Christ (Michelangelo, Santa Maria sopra Minerva)”より
ピエトロ・ウルバーノ Pietro Urbanoはピストイア(イタリア・フィレンツェの北)で生まれ、ルネッサンス時代のイタリア人彫刻家、ミケランジェロの弟子であった。サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァの教会のミケランジェロ作品”十字架を持つキリスト”の仕上げを任されたが、作品を台無しにしたため、ミケランジェロから解雇された。その後、ギャンブルと売春婦のため,宝石や衣服を盗み、逃亡した。出展:Pietro Urbano - Wikipedia(2010、oct.,10)
☆ミケランジェロ『ミネルヴァのキリスト』の第1作品 Primo Cristo della Minerva (Michelangelo )
パッサーノ・ロマーノ、サン・ヴィンチェンツォ修道院付属聖堂所蔵
ミケランジェロ”ミネルヴァのキリスト”の第1作品:
”十字架を持つキリスト(ジュスティニアーニのキリスト)” 1514-1516年
顔の黒い亀裂
上記2枚の画像:所有者サン・ヴィンチェンツォ修道院のベネディクト会修道士
シルベストリーニのウェーブサイトより借用
”ミネルバのキリスト”の第1作品は、製作中、顔に黒い亀裂が発見され、未完成なものでしたが、依頼主の1人メテッロ・ヴァリ(ローマの貴族、1554年死亡)によって引き取られ、1522年にサンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ近くのメテッロ・ヴァリの邸宅の小さな中庭に置かれた。
1607年にこの作品は骨董市場に出回っており、イタリアの貴族で銀行家、アートコレクター、カラヴァッジョのパトロンで有名なヴィンチェンツォ・ジュスティニアーニ侯爵(1564年-1637年)が300スクード (現在で600~900万円相当)で購入した。
17世紀初頭、匿名の彫刻家の手で未完成品を完成させた。
ヴィンチェンツォの後継者の甥、アンドレア・ジュスティニアーニ王子は1644年にサン・ヴィンチェンツォ教会に持ち込んで、1979年まで置かれた。
2000年、アイリーン・バルドリガはパッサーノ・ロマーノのサン・ヴィンチェンツォ教会の聖具室で発見し、行方不明だった最初のバージョであることを認めた。 黒い裂け目はキリストの左頬ではっきりと認識できた。それは今ではしばしば、ジュスティニアーニのキリストと呼ばれることが多い。展示会後、サン・ヴィンチェンツォ修道院内に戻された。
開催された展示会:2001年 ローマ・ジュスティニアーニ宮殿、2001年 ベルリン-アルテス博物館、
2014年 ローマ・カピトリーノ博物館、2015年 メキシコ-メキシコシティ、
2017年 ロンドン・ナショナルギャラリー、2017年 東京
出展:”Risen Christ (Michelangelo, Santa Maria sopra Minerva)”英語版 ウィキペディア
Primo Cristo della Minerva - Wikipedia イタリア版
Monastero di San Vincenzo (Bassano Romano) - Wikipedia
サン・ヴィンチェンツォ修道院 ベネディクト会修道士シルベストリーニのサイト
サン・ヴィンチェンツォ修道院-ヨハネ・パウロ2世(第264代ローマ教皇)慈善団体のホームページ
◆聖歌隊礼拝堂 又はメディチ家礼拝堂(見取り図-22)
Cappella del Coro o Cappella Medicea
イタリアではあまりステンドグラスは見かけないが、久しぶりに見て、感激した!
聖歌隊礼拝堂またはメディチ家礼拝堂は1500年代にアントニオ・ダ・サンガッロ・ザ・ヤンガーによってゴシック様式に変更された後、1600年代にカルロ・マデルノによってアプシス(後陣)が拡大され、メディチ家の2人の教皇の葬儀の記念碑が収められている。 レオ10世とクレメンス7世。 出典:イタリアのサイト”I Viaggi di Raffaella”
聖歌隊礼拝堂またはメディチ家礼拝堂
3つの大きなマリオン窓はベルナルディーノ・リッカルディ Bernardino Riccardiのデッサンによるドミニカ会の聖人を描いたステンドグラスで、19世紀のものです。出典:イタリアのサイト”I Viaggi di Raffaella”及びウィキペディア(日本語版)
フィリッピーノ・リッピは修道士であって、画家でもあったフィリッポ・リッピと修道女であったルクレツィア・ブティと駆け落ちしてできた子である。
ベルナルディーノ・リッカルディ(1814年パルマ - 1854年ローマ)はイタリアの画家でした。ナポレオン1世の皇后で、ハプスブルク家出身のマリア・ルイジア公爵夫人のお気に入りの芸術家の一人(イサクの犠牲、1835年 パトロクロスの死を嘆くアキレウス、1837年)。”嘆きの聖母(1839)”、”アダムの瞑想”などの油絵。1840年代には水彩画による肖像画、衣装(パルマ、ロンバルディ博物館)の絵画に専念した。彼の最も重要なローマの仕事はサンタ.マリア・ソプラ・ミネルヴァ大聖堂の装飾美術[預言者、布教者、教会の博士などの姿を投影したヴォールト(アーチ形天井))及びステンドグラス]に参加したことである。出典:主にウェーブサイト”Arts Life History"
◆玄関ホール Vestibolo (見取り図-23)
絵画中心の礼拝堂を見ていたためか、バロックの彫刻群に接し、新鮮な感覚で面白いと感じた。
この狭い空間にバロック期の巨匠の作品(カルロ・ライナルディ、ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ、ジャコモ・デッラ・ポルタ)が見られた。今考えると凄い。
聖歌隊礼拝堂(メディチ家礼拝堂)(見取り図-21)の左隣にいわゆる”玄関ホール”がある。これはフラ・アンジェリコ通りからの入口を作るため、17世紀にルスティチ・エ・チェンチ礼拝堂を取り壊して作り直した。 出典:ウェブサイト”I Viaggi di Raffaella”の”La Basilica di S.Maria sopra Minerva”
玄関ホール Vestibolo
背面(扉)はカルロ・ライナルディ(1611年-1691年)設計の「カルロ・ボネッリ枢機卿(1612年-1676年)の慰霊碑」(1675年)。
右壁にはベルニーニ(1598年-1680年)設計で、アントニオ・ラッジ他2名による彫像からなる「ドメニコ・ピメンテル枢機卿(1585年-1653年)の慰霊碑」(1653年)がある。ただし、写真にはほとんど写っていない。
左壁には、ジャコモ・デッラ・ポルタ(1598年-1611年)が企画した「ミケーレ・ボネッリ(アレッサンドリーノ)枢機卿(1541年-1598年)の慰霊碑」(1611年)があります。枢機卿の彫像はシラ・ジャコモ・ロンギ(別名シッラ・ダ・ヴィギウ、1569年-1622年)の彫像です。手前に「信仰の女神」(ポンペオ・フェルッチ)(約1566/1637)
出典:ウェブサイト”ROMAPEDIA”
カルロ・ライナルディ設計
「カルロ・ボネッリ枢機卿の慰霊碑」(1675年)
カルロ・ライナルディ設計
「カルロ・ボネッリ枢機卿の慰霊碑」彫像説明
・エルコレ・フェラータ Ercole Ferrata(1610/86年):「枢機卿の丸いレリーフ(浮彫・肖像画)を天使に持てせた彫刻」担当。ローマのバロック様式のイタリアの彫刻家。当初、カルロ・ライナルディの弟子、さらにベルニーニの指導を受け,多くの優れた弟子を育てた。右壁のベルニーニ設計「ドメニコ・ピメンテル枢機卿の慰霊碑」(枢機卿像、信仰と知恵像)の彫像製作も担当。
・フィリッポ・カルカーニ Filippo Carcani (活動時期1670/91年):「慈愛の女神」像担当。エルコレ・フェラータ の弟子。
・ジョヴァンニ・フランチェスコ・デ・ロッシGiovanni Francesco De Rossi(活動時期1640/77年):「慎重の女神」像と「正義の女神」像担当。ローマで活躍し、エルコレ・フェラータと協力関係
・ミシェル・メイル別名ミケーレ・マリアMichel Maille aka Michele Maglia:「信仰の女神」担当。17世紀後半にローマで活躍。エルコレ・フェラータ の弟子。
・フランチェスコ・アプリレ(?1650/1685)Francesco Aprile: 高い所の「天使たち」像担当。エルコレ・フェラータ の弟子
出典:主にウェブサイト”ROMAPEDIA”、他
「カルロ・ボネッリ枢機卿の慰霊碑」詳細
カルロ・ライナルディ(ローマ、1611年– ローマ、1691年):ローマのバロック期の重要な建築家。最初、彼の父、ローマの後期マニエリスム建築家であるジロラモ・ライナルディ(1570年-1655年)と一緒に働き、父の死後、バロック様式の記念碑を手掛け、パンフィーリ家のイノセント10世(在位1644/55年)の時代に注目されるようになった。彼の作品には、「サン・アンドレア・デッレ・ヴァッレ教会の正面玄関(ファサード)の最終設計(1661/65)」、「双子の教会と呼ばれるサンタ・マリア・デイ・ミラーコリ教会とサンタ・マリア・イン・モンテサント教会(1663/67)」、「サンタ・マリア・イン・ポルティコ・イン・カンピテッリ教会(1663/67などがある。また,サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂の「教皇クレメンス9世の記念碑(1671年)」を手掛ける。建築家の他に宗教的な儀式やイベントのための舞台セットも設計した。彼は作曲家でもあった。出典:Carlo Rainaldi - Wikipedia、他
ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ(ナポリ、1598~ローマ、1680年):イタリアのバロック様式の代表作家(建築家、彫刻家、画家)、彫刻家ピエトロ・ベルニーニ(Pietro Bernini,1562年-1629年)の子。「ベルニーニはローマのために生まれ、ローマはベルニーニのためにつくられた」と賞賛されたバロック芸術の巨匠である。古代遺跡が残る古き都ローマは彼の手によって、壮大なスケール、絢爛豪華な装飾にあふれる美の都に変貌していった。人々は彼の作品を「芸術の奇跡」と絶賛した。出典:ウィキペディア他
ジャコモ・デッラ・ポルタ(Giacomo della Porta、1533年ごろ /1602年)は16世紀後半のローマの重要な建築家であり、彫刻家。後期ルネサンス(マニエリスム)とバロックをつなぐ建築家として重要。 ジェノバに生まれ,ローマに出て、ミケランジェロ(1475/64)や師匠だったジャコモ・バロッツィ・ダ・ヴィニョーラ(1507/73)の影響を受け、彼らの下で仕事をした。ミケランジェロ没後,未完となった末期の建築工事(カンピドリオ整備計画(1573/602),サン・ピエトロ大聖堂ドーム(1588/1590)など)を引き継いだ。出典:Wikipedia,平凡社百科事典マイペディア,ブリタニカ国際大百科事典 ヴィニョーラ没後、ヴィニョーラが手掛けたジェズ教会(1571/75)を完成させ、ローマ市内の主要建築物の工事の大部分に関係し,〈ローマ市民の建築家〉とよばれたが,ルネサンスからバロックへの過渡期にあって,その様式的個性は乏しかった。出典:平凡社世界大百科事典 第2版
◆フランジパーネとマッダレーニ・カピフェロの礼拝堂(見取り図-24)
Cappella Frangipane e Maddaleni-Capiferro
フラ・アンジェリコの作品と言われたこともあり、この手の聖母子像に興味があったので紹介しよう。
フランジパーネとマッダレーニ・カピフェロの礼拝堂
14世紀、礼拝堂はカピフェロ家とマッダレーニ家により、聖ミカエルとマグダラのマリアに捧げられた。 15世紀には、フランジパーネ家によって継続された。フランジパーネ家は、前の2つの家系から派生した。出典:サイト”トン・ファン・モーリック 「ローマのトラベローグ」”
ベノッツォ・ゴッツォリ「聖母子」(1449年)
Madonna col Bambino (Benozzo Gozzoli (1449))
以前、フラ・アンジェリコ(1395年-1455年頃)工房に帰属していたが、今日、この絵画の作者はベノッツォ・ゴッツォーリ(1420年-1497年)であると考えられている。出典:ウエーブサイト”Romainteractive”
ベノッツォ・ゴッツォーリは絹地にテンペラで描いた(1449年)。祝祭・葬送などの行進の旗として1700年まで使用され、後にパネル(画板)に表装され、祭壇に置かれた。出典:独版、Santa Maria sopra Minerva (Rom) - Wikipedi、ウエーブサイト”カソペディア”、ウエーブサイト”Romainteractive”など
ベノッツォ・ゴッツォリ(1421年頃 - 1497年)は、フィレンツェ出身のイタリア・ルネサンスの画家。ゴッツォリの最も知られている作品は、メディチ・リカルディ宮にある連作の壁画である。驚くほどディテールに凝った、華やいだ、活気溢れる行進が描かれていて、国際ゴシックがゴッツォリの絵に影響を及ぼしていることを示している。
ゴッツォリはジョルジョ・ヴァザーリによると、最初はフラ・アンジェリコの弟子兼助手だったということである。フィレンツェのサン・マルコ修道院にあるいくつかの作品は、アンジェリコのデザインをゴッツォリが仕上げたものである。1444年から1447年にかけて、ロレンツォ&ヴィットリオ・ギベルティ親子と共同で、サン・ジョヴァンニ礼拝堂の楽園の扉を制作した。1449年から、サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会に『聖母子』の旗を作りはじめたが、おそらくデザインはアンジェリコだったと思われる。
ゴッツォリの生涯を通しての真面目さは、その師フラ・アンジェリコと並ぶと言われている。
出典:ベノッツォ・ゴッツォリ - Wikipedia
祭壇の左側に飾られているフランチェスコ・パローネ「アッシジの聖フランチェスコ」、パローネは1562年頃ミラノ生れ~1644年頃 ローマ没の画家。
出典:サイト”トン・ファン・モーリック 「ローマのトラベローグ」”
フランチェスコ・パローネ”聖フランチェスコ”(1620 / '34年)
San Francesco ( Francesco Parone())1620 / '34
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