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カピトリーニ美術館訪問(その3) 2014/12/28および2016/12/30

  今回はカピトリーニ美術館の絵画館(ピナコッタ)を御紹介します。

【絵画館(ピナコッタ)Pinacoteca】

カラヴァッジョ

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カラヴァッジョのの初期の頃の作品「女占い師」1595年
La Buona Fortuna - Caravaggio
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カラヴァッジョ「洗礼者聖ヨハネ」(1602-03年)
S.Giovanni Battista - Caravaggio

   ヨハネを示す持物(杖や仔羊など)が見当たらないこと、画面左下に火のついた薪が見えることから、「犠牲から解放されたイサク」を描いたものとも考えられているらしい。出典:ブログ"東京でカラヴァッジョ 日記" より

  カラヴァッジョ(Caravaggio1571年-1610年)は1593年から1610年にかけて、ローマ、ナポリ、マルタ、シチリアで活動した。あたかも映像のように人間の姿を写実的に描く手法と、光と陰の明暗を明確に分ける表現は、バロック絵画の形成に大きな影響を与えた。出典:ウィキペディア

◆ルーベンス

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ルーベンス「ロムルスとレムス」 (1612年)
Battesimo di Cristo - Tiziano

   ローマは紀元前753年にローマを建国したロムルスの名をとって名付けられたといわれる。そのロムルスは双児(ロムルスとレムス)の片方で、アルバロンガ王ヌミトルの娘レア・シルヴィア(伝説の王女)と軍神マルス間にできた子供と信じられている。王女レア・シルヴィアの叔父により王女は投獄され、双児は籠に入れられ、テヴェレ河に流された。赤ん坊の入った籠は、河口近くまで流れてきて、川岸の繁みにひっかかってとまった。籠の中から聞こえる幼児の泣き声に、付近を通りがかった狼が気づいた。幼な児二人に乳をふくませ、餓死から救ったのはこの母狼だったという逸話がある。出典:塩野七生著"ローマは一日にして成らず"、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』最終更新 2016年8月19日 (金) 11:03

   ピーテル・パウル・ルーベンス(1577年-1640年)は、バロック期のフランドルの画家、外交官。アントウェルペンで大規模な工房を経営し、七ヶ国語を話し、外交官としても活躍した。出典:ウィキペディア

◆ドメルキーノ

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ドメルキーノ「クーマの巫女」 (1622年)
Sibilla Cumana - Domenichino

   クマエのシビュラは、イタリア半島の古代ギリシア植民都市クマエにおいて、アポロンの神託を司った女性預言者です。ウェルギリウスの『牧歌』において、クマエのシビュラの予言として神童と黄金時代の到来を歌い上げた。この予言は、古代から中世のキリスト教社会では、キリストの降誕を予言したものとして広く知られた。出典:ウィキペディア

   ドメニキーノ(il Domenichino)ことドメニコ・ザンピエーリ(Domenico Zampieri)(1581年-1641年)は盛期バロックのイタリアの画家。ボローニャ派(Bolognese School)もしくはカラッチ派に属する。ドメニキーノは靴屋の息子としてボローニャに生まれた。故郷でカラッチ兄弟のアカデミア・デリ・インカミナーティに入った。1601年には、ボローニャからローマに移った。アンニーバレ・カラッチの弟子たちの中でも、フランチェスコ・アルバーニ(Francesco Albani)やグイド・レーニといった先輩たち、ジョヴァンニ・ランフランコといった終生のライバルたちと並ぶ、優秀な弟子の1人だった。ドメニキーノ(小さいドメニコ)というあだ名は、その身長からつけられたものである。出典:ウィキペディア

◆グイド レーニ

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グイド・レーニ
「聖ヒエロニムス(ジローラモ)」
San Girolamo - Guido Reni
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グイド・レーニ「聖セヴァスチャン」. 
S.Sebastiano - Guido Reni

   グイド・レーニ(1575年-1642年)は17世紀前半、バロック期に活動したイタリアの画家。アンニーバレ・カラッチらによって創始されたボローニャ派に属する画家で、ラファエロ風の古典主義的な画風を特色とする。レーニはイタリア北部のボローニャに生まれ、修業期にはフランドル出身の画家デニス・カルファート(1540年頃-1619年)に師事した。カルファートは16世紀のヨーロッパ画壇を席巻したマニエリスム系の画家であった。この師のもとで数年間修業した後、1594年、地元ボローニャの画家一族であるカラッチ家が主宰する画学校(アカデミア・デリ・インカミナーティ)に入門し、ルドヴィコ・カラッチに師事した。出典:ウィキペディア

◆ヴェロネーゼ

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ヴェロネーゼ「エウロパの略奪」(1580-85年)Ratto d'Europa - Veronese

   "エウロペの略奪"と言えば、ティツィアーノ作が有名ですが、ゼウスが牡牛に化けて美女エウロペを誘拐する神話画だそうです。出典:中野京子"名画の謎ギリシャ神話編"  私としてはベロネーゼも結構良いと思いました。

 パオロ・ヴェロネーゼ(伊: 1528年 - 1588年)は、ルネサンス期のヴェネツィアで活動したイタリア人画家。『カナの婚礼』、『レヴィ家の饗宴』などの作品で知られる。出身地のヴェローナから「ヴェロネーゼ」として呼ばれれるようになった。ヴェロネーゼはティツィアーノとティントレットと並んで、ルネサンス後期のヴェネツィアを代表する画家であると評価されている。出典:ウィキペディア

◆ガロファロ

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 聖セバスチャンは3世紀のディオクレティアヌス帝のキリスト教迫害で殺害されたといわれてきた。彼は美術や文学で、柱に身を縛り付けられ、矢を射られた姿で描かれることが多い。

出典:ウィキペディア

 パオロ・ヴェロネーゼ(伊: 1528年 - 1588年)    ガロファロ(1481年 - 1559年)はルネサンス後期=マニエリスムのイタリアの画家。フェラーラ派に属する。フェラーラ公国のエステ家宮廷に仕えることから画家としてのスタートを切った。

  出典:ウィキペディア

ガロファロ工房「聖セバスチャン」1510年 
San Sebastiano - Bottega del Garofolo

◆グエルチーノ

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グエルチーノ「埋葬され天に昇る聖ペトロニラ」Seppellimento di Santa Petronilla - Guercino

   聖女ペトロニラ:フランスの守護聖女ローマで1世紀に殉教したとされる美貌の聖女。使徒聖ペトロの召使いとして働き、家事を預かっていた事から、ほうきと鍵がエンブレム。「ローマ教会の長女」を自認していたフランスは彼女を守護聖女にした。出典:光 Healing Art shisui - livedoor Blog

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グエルチーノ「ペルシアの巫女」
Sibilla Persica - Guercino

   シビュラとは、古代ギリシャにおけるアポロンの神託を媒介する巫女のことを言った。ペルシャの巫女は、アレクサンダーの偉業を予言したと言われる。一方、バビロンの巫女と呼ばれたり、エジプトの巫女と呼ばれたりもして、その正体にははっきりしないところが多い。・・・壺齋散人の美術批評 "ペルシャの巫女:ミケランジェロ「システィナ礼拝堂天井画」"

   グエルチーノ(Guercino 1591年 - 1666年)は、バロック期のイタリアの画家。エミリアの出身で、ローマ、ボローニャで活動した。グエルチーノという言葉は「やぶにらみ」という意味で、彼が斜視だったことからつけられたあだ名である。初期のスタイルはチェントのアンニーバレ・カラッチの影響を受けている。それが後期の作品となると、彼と同時代の巨匠グイド・レーニの作風に接近し、より明るく明瞭な絵を描くようになってゆく。出典:ウィキペディア

◆ピエトロ・ダ・コルトーナ

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ピエトロ・ダ・コルトーナ「ウルバーノ8世の肖像」(1627)
Urbano VIII (al centro) - Pietro da Cortona

   ウルバヌス8世(1568年 - 1644年)はバロック時代のローマ教皇(在位:1623年- 1644年)。三十年戦争を通じてみせた聖職者というよりは政治家・統治者としての姿、学問と芸術の庇護、目にあまる親族登用主義など、さまざまな意味で最後の中世的教皇であった。なお、彼の時代にガリレオ・ガリレイの裁判(第2次裁判)がおこなわれたことでも知られている。出典:ウィキペディア

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ピエトロ・ダ・コルトナー/サビーニの女たちの掠
Il Ratto delle Sabine - Pietro da Cortona

   「サビーニ族の女たちの強奪」、古代の歴史家たちによれば、ローマ建国者と言われるロムルスの企てだったそうだ。サビーニ族を祭りに招待したとき、サビーニ族の若い娘たちを強奪した。強奪後も、幾度ともなく、ロムルス(ローマ王)率いる族とサビーニ族間に戦いが繰り返されたが、奴隷でなく正妻として結婚させ,強奪された女性からの願いもあり和平が成立、部族上げてローマに移住、市民権も与えられたそうだ。欧米では、今でも、花婿が花嫁を抱きあげて新居の敷居をまたぐ風習がある。この事件以来ずっとローマ人の習慣になっていたのが、今日でもつづいている一例である。出典:塩野七生"ローマは一日にして成らず"

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ピエトロ・ダ・コルトナー/ポリュクセネの犠牲 sacrificio di polissena - Pietro da Cortona

  ポリュクセネPolyxenē。ギリシア神話の女性。トロイ王プリアモスとヘカベの末娘。父およびアンドロマケとともに,戦死したヘクトルの死体の返還を頼みに来たこの可憐な王女を見たアキレウスは,たちまち彼女に恋するが,やがてこの恋がパリスの矢によって彼が打取られる原因となった。そのため,トロイ落城後ギリシア軍に捕えられた彼女は,アキレウスの遺児ネオプトレモスにより,亡父の墓にいけにえに捧げられたという。出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

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ピエトロ・ダ・コルトーナの「バッカスの勝利」1624-25頃
Trionfo di Bacco - Pietro da Cortona

   ローマにおけるバックスの神話は、ギリシア神話のディオニューソスの神話をローマの神名に置き換えたものである。ディオニュソス(バッカス)は大神ゼウスとテーバイの王女セメレーの子。ゼウスの正妻ヘーラーは、嫉妬からセメレーを憎みました。 ディオニソス(バッカス)は成長すると、ぶどうの栽培やその果汁から酒を造ることを発見した。その後も、ヘーラーの憎しみは消えず、ディオニュソスを狂わせ、世界中を放浪させました。直った後、ブドウの栽培と酒の作り方を教えて歩きました。 遠くインドにも長く遠征したということです。この勝利から帰ってきたディオニュソス(バッカス)は、ギリシャ中に秘教を広めた。参考資料:ウィキペディア、ホームページ"ギリシャ神話|ディオニュソス:ディオニュソスの誕生"など

 ピエトロ・ダ・コルトーナ(フィレンツェ1596年-1669年)、本名ピエトロ・ベレッティーニ(Pietro Berrettini, またはPietro Berettini)は、盛期バロックのイタリアの画家、建築家である。とりわけフレスコ画装飾、絵画の分野で数多くの作品を残している。教皇ウルバヌス8世の時代に、彼はベルニーニ、ボッロミーニと並んで、ローマにおける主要な建築家の一人であった。 代表作であるローマのバルベリーニ宮殿の巨大な天井画は、建築装飾、絵画、現実空間の区別がつかないようなイリュージョン(錯視)効果をもち、後世の美術家に多大な影響を与えた。1596年フィレンツェ近郊のコルトーナに石工の子として生まれた。フィレンツェの画家コモディに師事し、1613年、師とともにローマへ出て、以後主にローマで活動した。出典:ウィキペディア

◆ティツィアーノ

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ティツィアーノ「洗礼を受けるキリスト」(1511-12年)
Battesimo di Cristo - Tiziano

    ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(1488年/1490年頃- 1576年)は、盛期ルネサンスのイタリア人画家。ヴェネツィア派で最も重要な画家の一人である。ヴェネツィア共和国ベッルーノ近郊に生まれた。肖像、風景、古代神話、宗教などあらゆる絵画分野に秀で、ヴェネツィア派でもっとも重要なイタリア人画家の一人となっている。ティツィアーノの絵画技法は筆使いと色彩感覚に特徴があり、イタリアルネサンスの芸術家だけではなく、次世代以降の西洋絵画にも大きな影響を与えた。作品の色調は明るく、奔放な筆使いと繊細で多様な色使いは、それまでの西洋絵画に前例のない革新的なものだった。出典:ウィキペディア

◆ドメニコ・ティントレット

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ドメニコ・ティントレット「悔悛するマグダラのマリア」1598-1602年 Maddalena penitente - Domenico Tintoretto

  マグダラのマリアの側にドクロがありますが、イエスが十字架につけられた場所は「ゴルゴタの丘」と呼ばれており、ゴルゴタは「ドクロ」の意味です。イエスを最後まで見届けたマグダラのマリアを示すシンボルとして一緒に描かれることが多いです。出典:日本キリスト教団 会津若松教会 信徒のブログより

有名なティントレットの息子ドメニコ・ティントレットの3枚.jpg

 ドメニコ・ティントレットのこの3作品はいまいちと感じるのは私だけでしょうか。

第3ホールのドメニコ・ティントレットの3作品
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ドメニコ・ティントレット「キリストの洗礼」
ドメニコ・ティントレット「鞭打たれるキリスト」(2).jpg
ドメニコ・ティントレット「鞭打たれるキリスト」
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ドメニコ・ティントレット「荊刑のキリスト」

  ヤコポ・ティントレットと言われた有名なティントレットは三人の子供がおり、 ふたりの子が画家(ドミニコとマリエッタ)になった。ドミニコ・ティントレット(1560年 - 1635年)は歴史画家としては父より劣っていたが、肖像画の分野で技量を発揮した。晩年卒中によるまひで右手が動かなくなったため、左手で絵画制作をつづけたという逸話が残っている。娘のマリエッタも画家になり、肖像画を得意とした。 出典:ウィキペディア など

◆その他無名な絵画

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ヤン・アセリン「聖ラザロ司教の橋(アーチ)」
St Lazarus' Arch - Jan Asselyn 

  有名な絵ではないですが、私はなにかしら引きつけられる、好みの絵です。

  ヤン・アセリンJan Asselijn(1610頃-1652)は、オランダの画家。エサイアス・ファン・デ・ヴェルデの元で修業し、風景画や動物画で目立った存在となる。フランスやイタリアを旅し、 ピーテル・ファン・ラールのスタイルから影響を受ける。また、フランドル出身の画家達のグループw:Bentvueghelsのメンバーともなった。アセリンは右手が不自由で、背も低かったようである。アセリンはレンブラントと親しかったようで、イーゼルの前に立つアセリンを描いたレンブラント画のエッチングが残っている。アセリンは、クロード・ロランの作品のようなはっきりとしたスタイルの風景画をオランダに持ち込んだ初期の画家のひとりである。出典:ウィキペディア

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ヴェンーラ・デル・モロ(バルデッセの セウド・アンブロジオ)「聖母戴冠」  1405年 - 1410 年頃    
Ventura di Moro (Pseudo Ambrogio di Baldese) - Incoronazione della Vergine

   ヴェンーラ・デル・モロ(バルデッセの セウド・アンブロジオ)Ventura di Moro (Pseudo Ambrogio di Baldese):1395年頃生-1486年頃没、15世紀初めにフィレンツェで活躍した画家と言われる無名画家。参考資料:ボローニャ大学 フェデリーコ・ツェリ財団 FONDAZIONE FEDERICO ZERI - Universit? di Bologna、イタリア語版ウィキペディアなど

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