◆美術館展示
独版ウィキペディア”ドーリア・パンフィーリ宮殿”より
ドーリア・パンフィーリ美術館は宮殿内にあり、とにかく絵画が多く、高い所にまで絵画でいっぱい、首が疲れた!
当美術館は費用を払えば、写真が撮り放題ですが、高い所の絵画が撮り難い!
しかし、見逃せない絵画が豊富にあり、何度も行きたい美術館です。お勧めです!
ただし、’21/2/28現在、コロナ禍で渡航できないですが。
◆プライベートゾーン
礼拝堂 Cappella
カルロ・フォンタナCarlo Fontana 設計の礼拝堂です。宮殿内にこのようなものを作るなんてリッチですね。
グリーンルーム
19世紀初めの改装でヴェネチア様式を再現したダイニング
ルームだそうです。とにかく洒落ていますね。
◆カラヴァッジョ
カラヴァッジョ「エジプトへの逃避途上の休息」1597年頃
(Riposo nella fuga in Egitto)
私のお気に入りの一枚!この題目はマリア、ヨセフ(イエスの養父)とイエスの”エジプト逃避”を描いたものです。なにせ黒い羽の天使なんて観たこともないし、それに天使の女体がリアルです。
『新約聖書』のマタイ福音書第2章ではイエスはヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムで産まれたとされている。そのとき東方から来た占星術の博士たちが「ユダヤの王が生まれた」と言っているのを聞き、恐れたヘロデ王は、ベツレヘムとその周辺で産まれた2歳以下の男の子を、一人残さず殺した。イエスの父ヨセフは夢に天使が現れ「エジプトに逃れなさい」と告げたので、幼子イエスとその母マリアを伴ってエジプトに逃れていたので難を逃れた。出典:ブログ”ヘロデ王 - 世界史の窓”より
カラヴァッジオ「懺悔するマグダラのマリア」 1594年~1595年
Caravaggio, "Maddalena penitente"
「懺悔(ざんげ)するマグダラのマリア」はカラヴァッジオの最初期の作品。
マグダラのマリアの一般イメージは、イエスによって「悔悛(かいしゅん)した罪ある女(=娼婦)」であり、このモデルは本物の高級娼婦アンナ・ビアンキーニAnna Bianchini と言われている。
「エジプトへの逃避途上の休息」の詳細
「懺悔するマグダラのマリア」の詳細
「エジプトへの逃避途上の休息」の聖母マリアと「懺悔するマグダラのマリア」のマグダラのマリアは同一のモデルで高級娼婦アンナ・ビアンキーニAnna Bianchiniと言われている。
カラヴァッジョは生身の人間をモデルにし、それを正確に表現しているらしい。彼の作品にはしばしば明らかに同じモデルを写したように見える人物が、制作時期の近い作品の間に見られる、また、彼は制作に際して準備デッサンを用いず、モデルを前にして直接カンヴァスに向かったらしく、その結果、モデルが正確に描写されているとおもわれる。中には制作時期が非常に近いとき、モデルを実際に前にしていたのではなく、モデルの記憶に基づいて描くこともあったようである。出典:宮下規久朗著作『カラヴァッジョ 聖性とビジョン』
カラヴァッジョ「若き洗礼者ヨハネ・作者自身のレプリカ」
Caravaggio , "S. Giovanni Battista"
カラヴァッジョ「若き洗礼者ヨハネ」のコピー、制作者不明
Caravaggio(da) , "S. Giovanni Battista"
1953年にカピトリーノ美術館にある《洗礼者ヨハネ》がカピトリーノ宮殿のローマ市長室で再発見されるまでドーリア・パンフィーリ美術館の《洗礼者ヨハネ》がオリジナルとされていたが、近年の徹底的な科学調査の結果、カピトリーノ作品がオリジナルでドーリア・パンフィーリ作品はカラヴァッジョ自身によるレプリカであるということにほぼ落ち着いた。これはコピーではなく、画家の手によるレプリカと考えられている。出典:宮下規久朗著作『カラヴァッジョ 聖性とビジョン』より
カラヴァッジョ「洗礼者ヨハネ(オリジナル)」カピトリーニ美術館・・・自撮り
Musei Capitolini Caravaggio , "S. Giovanni Battista"
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(伊: Michelangelo Merisi da Caravaggio、1571年 - 1610年)は、バロック期のイタリア人画家。ルネサンス期の後に登場し、カラヴァッジョ(Caravaggio)という通称で広く知られ、1593年から1610年にかけて、ローマ、ナポリ、マルタ、シチリアで活動した。あたかも映像のように人間の姿を写実的に描く手法と、光と陰の明暗を明確に分ける表現は、バロック絵画の形成に大きな影響を与えた。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
◆ベラスケス
ベラスケスといえばスペイン、とかウィーン(ハプスブルク家)と思うのですが、なぜ、 ドーリア・パンフィーリ美術館(ローマ)にこのような素晴らしい作品があるのか不思議。
ベラスケス「教皇インノチェンツォ10世の肖像」1650年
Velázquez, "Ritratto di papa Innocenzo X Pamphilj"
1649年、ベラスケスは2度目のイタリア旅行に出かけ、ローマに2年ほど滞在している。この間に描かれた教皇インノケンティウス10世の肖像は、カトリックの最高位にある聖職者の肖像というよりは、神経質で狡猾そうな一人の老人の肖像のように見える。国王、教皇から道化師まで、どのようなモデルをも冷徹に見つめ、人物の内面まで表現する筆力はベラスケスの特長である。出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』
1650年、イノケンティウス10世は完成品を見て、「真(しん)を穿(うが)ちすぎている」と洩らしたというが、真偽はわからない。作品の出来を気に入ったからとされるが、どうだろう?
もし、真を穿ちすぎるという言葉が後世における創作なら、それを言い出した者が強くそう感じたからだし、このように描かれたモデルが嬉しいはずあるまいとの確信もあったに相違ない。しかもいつしか教皇自身の言葉とみなされるほど、万人への説得力を持ったということだ。ベラスケスの絵の迫真性である。出典:中野京子「怖い絵-1」(2007。朝日出版社)
制作者不詳の「ベラスケス作『教皇インノチェンツォ10世の肖像』のコピー画」
Diego Velàzquez (da), "Ritratto di Innocenzo X Pamphilj"
1649年に旧知のベラスケスがローマを訪問すると肖像画の制作を承諾、1650年に『教皇インノケンティウス10世』を描かせた。ベラスケスはこの絵の上半身だけを模写した『ローマ教皇インノケンティウス10世半身像』をスペインへ持ち帰り、スペインの教皇大使がそれを見て本人そっくりだと感心したという話もある。出典:ウィキペディア(Wikipedia)。
なお、この作品がこれに当たるか分かりませんが。
インノケンティウス10世(Innocentius X 1574年生 - 1655年没)は、ローマ教皇(在位:1644年 - 1655年)。本名はジョヴァンニ・バッティスタ・パンフィーリ(Giovanni Battista Pamphili)というパンフィーリ家出身。
パンフィーリはローマ出身、1597年に叙階、1621年にナポリの教皇代理、1626年にアンティオキア大司教(シリアにおける教会の中では最大多数派の教会)、同年(1626年)にスペインへ教皇大使として赴任した。スペイン滞在中に画家ディエゴ・ベラスケスと出会った。1629年に枢機卿に選ばれ、1644年にフランスの枢機卿団の後押しで教皇位につき、インノケンティウス10世を名乗った。元は法学者で、教皇庁では主に外交の分野で目覚しい業績を挙げていた。出典:ウィキペディア
ディエゴ・ベラスケス。スペインの画家。ルーベンス,レンブラントと並び,バロック美術を代表する巨匠。F.エレラと F.パチェコに学び,1618年パチェコの娘と結婚。1622年マドリードを訪れ,翌 1623年 24歳でフェリペ4世の肖像画を描いて名声を高め,宮廷画家となった。1628年ルーベンスと出会い,以後彼の彩色法,装飾法などを取り入れ大きな影響を受けた。1629年ジェノバ,ベネチア,ローマ,ナポリをめぐり,1631年マドリードに戻ったが,1649年にイタリアを再訪。1651年帰国し,この間最大の肖像画家として王家や廷臣の肖像を多く描いた。明暗の処理,光線の表現,遠近法に熟達し,近代外光絵画の先駆者といわれる。エドゥアール・マネが「画家の中の画家」と呼んだベラスケスは、スペイン絵画の黄金時代であった17世紀を代表する巨匠である。出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典、ウィキペディア
バロック絵画の先駆者カラヴァッジオが一躍ローマ画壇の寵児となった作品。
左に”聖マタイの召命(1599年 - 1600年)”、右に”聖マタイの殉教(1599年 - 1600年頃)”、
中央に”聖マタイと天使(聖マタイの霊感)1602年頃”がある。
◆ティツィアーノ
ティッツィアーノの良い作品が当美術館にありました。
ティツィアーノ「洗礼者ヨハネの首を持つサロメ」1650年
Tiziano, "Salomè con la testa del Battista"
新約聖書によるヨハネ殉教のエピソード
イエスを洗礼したヨハネはガラリアの領主ヘロデ・アンティパスに逮捕され、投獄されてしまう。「自分の兄弟の妻と結婚してはならない」との律法に反すると、ヨハネから糾弾され続けていたのだった。客人が大勢集う祝宴でのこと。ヘデロは妻ヘロディアスの連れ子にダンスを踊るよう求め、少女はみごとに踊って見せ、皆を感嘆させた。ヘロデが「褒美にほしいものは何でもやろう」と約束したので、少女は母に何をもらうべきか相談した。するとヘロディアスは、「ヨハネの首を」と即答した。そこで少女が「盆に載せたヨハネの首がほしい」と答えると、ヘロデは刑吏(けいり)に命じてヨハネを殺させた。刑吏から盆に載せた首をもらった少女は、それを母に手渡した。 以外やサロメという名は出てこない。名無しで没個性。単に踊りがうまいというだけで、母親の言いなりに動く「少女」は聖書でなく、『ユダヤ古代誌』で初めて「サロメ」という名を与えられる。ついでながら事件当時サロメは十二歳くらい、この後二度結婚し、三人子供を産んで平凡にくらしたという。
”洗礼者ヨハネとサロメ”の絵画
初期の絵画は祝宴の場でヨハネが殉教するテーマが主で、そこに母親が居合わせ、娘が踊り、首を渡す、というシーンがよく描かれた。そこに母親が居合わせ、娘が踊り、首を渡す、というシーンがよく描かれた。やがて、サロメのダンスシーンも飽きられると、「聖人の首を恐れ気もなく所望(しょもう)した若い女」というイメージがが肥大化しはじめ、最終的には、最終的には、ヨハネの生首とサロメがワンセットで前面に押し出されてくる。最初から首をほしがったのは、ヘロディアスではなくサロメだったかのように。絵画でサロメと首セットが定着したのが、大体十六世紀半ば以来。
出典:中野京子”怖い絵2” ビアズリー「サロメ」2008年(株)朝日出版より
制作者不明のティツィアーノ「悔悛するマグダラのマリア」のコピー#566
Tiziano (da), "Maddalena penitente"566
制作者不明のティツィアーノ「悔悛するマグダラのマリア」のコピー#235
Tiziano (da), "Maddalena penitente"235
誰がコピーしたか分かりませんが、確かに原作と違いますね!
ティツィアーノ”悔悛するマグダラのマリア”オリジナル 1533年頃 ピッティ宮殿 ウィキペディアより借用
◆フィリッポ・リッピ
またまたビックな画家。
同時代のフラ・アンジェリコにも同じ「受胎告知」がありますが、それから影響されたのでしょうか?
フィリポ・リッピ「受胎告知」 (1445年~1450年)
Filippo Lippi, "Annunciazione"
フィリッポ・リッピ(Fra Filippo Lippi, 1406年 - 1469年)はイタリア、ルネサンス中期の画家。ボッティチェリの師でもあった。フラ・アンジェリコとともに、15世紀前半のフィレンツェ派を代表する画家である。フラ・アンジェリコが敬虔な修道士であったのとは対照的に修道女と駆け落ちするなど奔放な生活を送ったことで知られる。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
◆ガロファロ
ガロファロ ”聖家族と聖人” Garofalo, "Sacra Famiglia e santi "
ガロファロことベンヴェヌート・ティシ・ダ・ガロファロ、ベンヴェヌート・ティージ・ダ・ガローファロ(Il Garofalo or Benvenuto Tisi da Garofalo, 1481年 - 1559年)はルネサンス後期=マニエリスムのイタリアの画家。フェラーラ派に属する。フェラーラ公国のエステ家宮廷に仕えることから画家としてのスタートを切った。初期の作品は牧歌的な作風だったが、芸術的に洗練されたフェラーラ宮廷のお気に召すよう、複雑な奇をてらった表現を狙いもした。
ジュリオ・ロマーノ、ジョルジョーネ、ティツィアーノ、ルドヴィーコ・アリオストとは友達だった。『楽園』という絵の中でガロファロは聖カタリーナと聖聖セバスティアヌスの間にアリオストを描いている。若い時分にはリュートをたしなみ、フェンシングにも興じた。フェラーラの画家の中では最高のランクに入っていた。弟子の中にはジローラモ・ダ・カルピがいる。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
◆ヤン・ファン・ケッセル
静物画はいろいろな美術館で見かけるのですが、この画家もフランドル地方の人です。
ヤン・ファン・ケッセル「花瓶、フルーツ、モルモット、サル、鳥、犬のある静物」17世紀後半
Jan Van Kesse "Natura morta con vasi di fiori, frutta, porcellini d'India, scimmie, uccelli e cane"
ヤン・ヴァン・ケッセル「カキ、花、果物、動物のある静物」1640 - 1660年
Jan Van Kessel il vecchio”Natura morta con ostriche, fiori, frutti e animali”
ヤン・ファン・ケッセル(Jan van Kessel、1626-1679)は、アントワープで活躍したフランドルの画家です。 ピーテル・ブリューゲル1世(1525/30-1569)を曾祖父とし、ヤン・ブリューゲル1世(1568-1625)を祖父に持つ画家の名門に生まれ、動物(哺乳類、爬虫類、魚類等)、昆虫(チョウ、バッタ、イモムシ等)、植物などの自然界の生き物を描くことを得意としました。出典:Bibliopolyのホームページ
◆ジャコモ・マッサ(蝋燭の光の画家、マエストロ・ジャコモ)
同美術館で多くの夜景画(正式には5点あるそうです)を初めて見ました。暖かい気持ちにさせるもので、カラバッチョの流れがあるそうです。
ジャコモ・マッサ ”ランプを油で満たす少女”#351
Giacomo Massa”A girl filling a lamp with oil”#351
ジャコモ・マッサ ”ノミを取る婦人” #354
Giacomo Massa ”Woman catching Fleas” #354
ドーリア・パンフィーリ美術館の学芸員によれば、
ドーリア・パンフィーリ美術館にある5つのカラヴァッジョ様式の夜景画はマエストロ・ジャコモ Maestro Jacomoの作品と掲示されているが、最近、ジャコモマッサGiacomo Massaと特定され た。ジャコモ・マッサGiacomo Massaは17世紀前半にローマで活躍した逸名(いつめい、年を経て名前が伝わらなくなっていること)の画家、俗に蝋燭の光の画家(キャンドルライト・マスターthe Candlelight Master)と同一視されている。同じ蝋燭の光の画家と言われるトロフューム・ビゴTrophime Bigot (1579–1650)の作品ではないとのこと。
1630年代、夜景画である5つのカラヴァッジョ様式の作品は、プリンス・カミロ・パンフィーリ Prince Camillo Pamphilj の所有で、1650年にはローマのベル・レスピーロ Belrespiroの別荘の一部にあったそうです。
・・・ドーリア・パンフィーリ美術館の学芸員とのメールより
蝋燭の光の画家とは、研究者ニコルソンによって命名された逸名(いつめい)画家である。この画家に帰された40点余りの作品群はホントホルストに着想源を得た、蝋燭やランプなどの人工照明によって照らされた夜景画で、単身から3,4人の半身像を単純化を単純化された形態と明確な陰影表現で表すという共通した特徴を示す。しかし、その作者は長らく特定されていなかった。この画家の正体として提起されてきたのはトロフィム・ビゴ(1579-1650)という南仏アルル出身のフランス人画家である。しかし蝋燭の光の画家に帰属される作品群と確実に彼に帰される作品との間には大きな様式的差異があり、研究者を困惑させてきた。蝋燭の光の画家に帰属される作品群が様式的に均一ではない点を指摘し、これらをビゴと蝋燭の光の画家の2人、ないし3人の手に分ける考え方も提起されている。
しかし従来からこの2人の間で帰属の揺れていたローマのサンタ・マリア・イン・アクロイロ聖堂受難礼拝堂の3点の祭壇画のうち、《ピエタ》を「画家ジャコモ」なる人物にどうていする史料が紹介され、そして2012年、祭壇画3点全てがジャコモ・マッサなる画家の作であり、1633年から35年にかけて制作されたことを示す史料が発見された。これにより、当礼拝堂の祭壇画との比較によってビゴないし蝋燭の光の画家に帰属されてきた作品群の大部分がマッサの手に帰される蓋然性(がいぜんせい)が極めて高くなった。しかしマッサの伝記的情報は一切判明しておらず、今後の研究が俟(ま)たれる。
川瀬佑介 『カラヴァッジョ展』展覧会カタログ(東京、国立西洋美術館)、国立西洋美術館、2016年 、266頁。
ジャコモ・マッサは1630年代のローマで、闇にロウソクやカンテラが灯るホントホルスト風の宗教画や風俗画をさかんに描き、その弟子も似たような作品を制作していた。ホントホルストが1620年にオランダに帰国した後、こうした暗闇の絵画の需要に応えたのだろう。しかし、それらは当時のローマでは時代遅れになっていたため、それほどの名声をえることはなく、その後、作者の名は急速にわすれさられたのではなかろうか。
・・・宮下規久朗(神戸大教授)「闇の美術史(カラヴァッジョの水脈)」岩波書店、2016年、P93~94
◆ラファエロ・サンティ
◆ジュリオ・ロマーノ