サンタ・マリア・デル・ポポロ教会 2015/1/1及び2016/12/31

   ローマの元日1月1日はすべての美術館・博物館及び多くの観光スポットが閉まっている。しかし、教会はミサの時間帯を除いてほとんど開いている。そこで、2015年元日のミサの時間を旅行代理店などに調べてもらい、分刻みのスケジュールを作った。また、観光タクシーを一日貸切ることで、かなりの教会を渡り歩くことができた。その一つにサンタ・マリア・デル・ポポロ教会があった。サンタ・マリア・デル・ポポロ教会ではカラバッジョの作品が有名なので、2015年元日にはカラバッジョの作品だけを見てきた。帰国後、他にも優れた作品があることを知り、2016年12月末ローマに行った際、再びサンタ・マリア・デル・ポポロ教会を訪問した。

【ポポロ広場】

   12月31日の6:30頃のローマは 日の出前のため、薄暗く、見難い写真です。あまりにも早いので人もまばらでした。

​正面はポポロ門、右にサンタ・マリア・デル・ポポロ教会
サンタ・マリア・デル・ポポロ教会
サンタ・マリア・デル・ポポロ教会
​ 手前にオベリスク、奥に双子教会(左にサンタ・マリア・イン・モンテサント教会と右に工事中のサンタ・マリア・デイ・ミラーコリ教会)

サンタ・マリア・デル・ポポロ教会

 1099年、伊語読みでパスクアーレ2世、英語読みでパスカリス2世はサンタ・マリア・デル・ポポロ教会を建てた。伝説によると、この場所には、ローマ皇帝ネロを埋葬するドミティアヌス家の墓があり、そこに生えていたクルミの木に悪魔が住みついていると人々に恐れられていた。パスカリス2世は、夢に現れた聖母マリアのお告げ通りにクルミの木を切り倒し、ネロの遺体を焼いて遺灰をテヴェレ川に流したところ、悪魔は現れなくなったという。その事を感謝して、パスカリス2世が市民に呼びかけ、聖母マリアに捧げる教会を建てたと言われる。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

1.ローヴェレ礼拝堂 Cappella della Rovere 

2.チーボ礼拝堂 Cappella Cybo

​3.バッソ・デッラ・ローヴェレ礼拝堂 Cappella Basso Della Rovere

​4.コスタ礼拝堂 Cappella Costa

​5.モンテミラービレ礼拝堂 Cappella Montemirabile

​6.キージ礼拝堂Cappella Chigi 

7. メッリーニ礼拝堂  Cappella Mellini 

8.聖十字架礼拝堂  Cappella Cybo-Soderini 

9.テオドーリ礼拝堂 Cappella Theodoli 

10.チェラージ礼拝堂 Capella Cerasi 

11.フェオーリ礼拝堂 Cappella Feoli

12.チカダ礼拝堂  Cappella Cicada 

13.主祭壇

14.彫刻家ジョヴァンニ・バッティスタ・ジスレーニの墓                 Tomba di Giovanni Battista Gisleni

サンタ・マリア・デル・ポポロ教会平面図

1.ローヴェレ礼拝堂 Cappella della Rovere 

 1488年、枢機卿ドメニコ・デッラ・ローヴェレ(1442年~1501年)のために、アンドレア・ブレーニョによって作られた。 1485年~14891489年に描かれた、ピントゥリッキオの祭壇画「幼子キリストの礼拝」がある。      出典:サイト ”Map-サンタ・マリア・デル・ポポロ教会 - チェーザレ・ボルジアとその周辺”より

ローヴェレ礼拝堂 Cappella della Rovere 
ピントゥリッキオ「幼子キリストの礼拝」Adorazione del Bambino-Pinturicchio

 ピントゥリッキオ(Pinturicchio)またはピントリッキオ(Pintoricchio)ことベルナルディーノ・ディ・ベット(Bernardino di Betto, 1454年 - 1513年)は、ペルージャ生まれ、育ちのルネサンス期のイタリアの画家。ジョルジョ・ヴァザーリによると、ピントゥリッキオはペルジーノの助手をしていたという。ルネサンスのペルージャ派の作品はどれもよく似ていて、ペルジーノ、ピントゥリッキオ、ロ・スパーニャ(Lo Spagna)、それに若い頃のラファエロの作品は、別の画家の作品と間違われることが多い。ピントゥリッキオ(Pinturicchio)は「piccolo pintor」、つまり小さな画家から出たニックネームのようだ。 出典:日本版、伊版、英語版ウィキペディア

2. チーボ礼拝堂 Cappella Cybo

  ロレンツォ・チーボ枢機卿(法王インノケンティウス8世の庶子)のために、カルロ・フォンターナによって作られた。法王インノケンティウス8世は聖職売買、親族登用、派手な女性関係など、堕落した中世的な教皇の典型と見なされている。

 出典:サイト ”Map-サンタ・マリア・デル・ポポロ教会 - チェーザレ・ボルジアとその周辺”、ローマの名家 その16 チーボ家 : ルネサンスのセレブたち - livedoor Blog、ウィキペディアより

カルロ・マラッタ「無原罪の御宿り(無原罪懐胎)」
Immacolata Concezione-Carlo Maratta

  カルロ・マラッタ Carlo Maratta(1625‐1713)。イタリア・バロック時代の画家。マラッティC.Marattiともいう。アンコナ近郊カメラノCamerano生れ。ローマでA.サッキに学ぶ。N.プッサンの古典主義とピエトロ・ダ・コルトナの雄弁な構図とを折衷した,典型的な後期バロックのビルトゥオーソ。イタリアの美術史家G.C.アルガンは彼を〈バロックの雄弁術を単なるお説教調の巧妙さに変えた〉画家と評している。明暗とスフマートを駆使した宗教画にはセンチメンタリズムの色が濃く,フランス・ロココの感性に近づいている。出展:世界大百科事典 第2版の解説

3.バッソ・デッラ・ローヴェレ礼拝堂 Cappella Basso Della Rovere

  1484年、枢機卿ジローラモ・バッソ・デッラ・ローヴェレによって、聖アウグストゥスに捧げられた礼拝堂。ピントリッキオの弟子たちが、1489年から1491年にかけて描いた絵画で飾られている。

 出典:サイト ”Map-サンタ・マリア・デル・ポポロ教会 - チェーザレ・ボルジアとその周辺” より

  ピントゥリッキオと弟子たちによる絵画(フレスコ画)ということですが、なかなか良い感じではないでしょうか。

バッソ・デッラ・ローヴェレ礼拝堂 
Cappella Basso Della Rovere
ピントゥリッキオと弟子たち「玉座の聖母子と聖人達」フレスコ画
Madonna in trono col Bambino e santi-Aiuto del Pinturicchio
ピントゥリッキオとその弟子たち「聖母被昇天」フレスコ画
Assunzione della Vergine-Aiuto del Pinturicchio
ピントゥリッキオと弟子たち「リュネット(三日月)部分:左から「聖母の誕生」「奉献」「受胎告知」「聖母の婚礼」」 フレスコ画 
 Lunette:Nascita della Vergine, Presentazione, Annunciazione,Sposalizio, Visitazione -Aiuto del Pinturicchio

6.キージ礼拝堂 Cappella Chigi 

  1513~16年に,ラファエロが,友人のローマの大銀行家アゴスティーノ・キージの依頼で設計と装飾をした。胴部は長い円蓋におおわれ,古代風の建築モチーフを取入れた均整のとれた建造物となっている。装飾は,ラファエロの指導のもとに,彫刻家ロレンツェットおよびモザイク師ルイジ・パーチェが担当した。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

キージ礼拝堂 Cappella Chigi
 このピラミッドが、アゴスティーノ・キージのお墓。左側にベルニーニ作「ハバククと天使」彫像が見える。
ラファエロ下絵ルイジ・デ・パーチェ作「モザイクのドーム」

   天井が高いためか、とてもモザイクには見えなかった。

 ラファエッロがカルトン(原寸大の下絵)を描き、ヴェネツィア出身のルイジ・デ・パーチェLuigi da Paceがモザイク装飾したようである。参考資料:上野真弓さんの”キージ家礼拝堂・ローマより愛をこめて ”のサイトより

ベルニーニ「ハバククと天使」1656年〜61年

   ユダヤ人の預言者ハバククは、昼食の入ったバスケットの側の岩に座り、若くて美しい天使がハバククの髪をつまみあげ、天使が彼をその壁龕の対角の《ダニエルとライオン》の像を指し導いている。

 この大理石彫刻の前段階のテラコッタモデルもバチカン美術館に保存されいて、作者はベルニーニ自身に帰属していると捉えられているが、美術館が1980年代に清掃されて以来、ディッカーソンとシゲルは、ベルニーニの助手のエルコール・フェラータの仕事であると考察している。出展:《ハバククと天使》ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ|MUSEY[ミュージー]のサイトより

  ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ([生]1598年 [没]1680年):イタリアの彫刻家,建築家,画家。彫刻家の父ピエトロ に師事し,父とともにローマに行き,枢機卿 S.ボルゲーゼのために『アポロンとダフネ』 (1622~25,ボルゲーゼ美術館) その他を制作。教皇ウルバヌス8世のもとで,バチカン宮殿の建築や彫刻などで活躍。 1640~50年代にはナボーナ広場の大噴水をはじめ多くのローマの公共記念物を制作。さらに教皇アレクサンデル7世のもとで,サン・ピエトロ大聖堂の広場と列柱群の建設に従事。なおこの期に祭壇彫刻の究極の完成とされる『聖テレサの法悦』 (45~52,ローマ,サンタ・マリア・デラ・ビットーリア聖堂) が造られた。 65年夏フランスに行き,王室の胸像の典型とされた『ルイ 14世像』 (65,ベルサイユ宮殿) を残した。盛期バロック美術を代表する最大の巨匠として,ヨーロッパ各地に大きな影響を与えた。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

ラファエロ設計、ロレンツェット彫刻 ”アンティノウス- ヨナ(1522年-1527年)”
"Antinoo-Giona". Marmo, disegnato da Raffaello Sanzio ed eseguito da Lorenzetto

  「アンティノウス- ヨナ」、「ヨナ」、「鯨の口から出るヨナ」などと呼ばれている作品。ヨナはユダヤ人の預言者、アミタイの子と言われている。古代ローマの皇帝ハドリアヌスに寵愛された美少年アンティノオスの古代彫刻を意識したヨナの姿ではないかと言われている。

出典:”フィレンツェだより 番外編 2013 ローマ再訪”のサイト 、英語版、イタリア版『ウィキペディア(Wikipedia)』など

  ロレンツォ・ロッティあるいはロレンツェットことロレンツォ・ディ・ロドヴィーコ・ディ・グリエルモは1490年フィレンツェに生まれ、1541年ローマで亡くなっている。イタリア・ルネッサンスの建築家・彫刻家・金細工師である。ラファエロの弟子で、ラファエロの一番弟子であるジュリオ・ロマーノの妹と結婚している。作品としてはラファエロの墓のための彫像”岩壁の聖母マリア”(ローマ・パンテオン)などがある。

出典:英語版、イタリア版『ウィキペディア(Wikipedia)』Lorenzo Lotti

10.チェラージ礼拝堂Capella Cerasi 

  1600年教皇クレメンス8世の財務長官モンシニョール・ティベリオ・チェラージ(Monsignor Tiberio Cerasi)は、左の翼廊にある旧フォスカリ礼拝堂の権利を取得したため(すぐに取りやめたそうですが)チェラージ礼拝堂と呼ばれている。 チェラージ礼拝堂はバロック建築の先駆者の1人として知られ、サン・ピエトロ大聖堂のファサードを設計したカルロ・マデルノCarlo Madernoが1601年から1606年までにデザインしたものです。出典:英語版『ウィキペディア(Wikipedia)』Santa Maria del Popolo より

アンニバレ・カラッチ「聖母被昇天」
Assunzione della Vergine di Annibale Carracci

 アンニバレ・カッラッチ(Annibale Carracci, 1560年 - 1609年)はバロック期のイタリアの画家。イタリア美術における初期バロック様式を確立した画家の一人であり、イタリア北部のボローニャを中心に活動したボローニャ派の代表的画家である。アンニーバレを中心とするカラッチ一族の門下からは多くの著名画家が育っており、後世への影響も大きい。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

カラヴァッジョ「聖パウロの回心(改宗)」1600年-1601年
Conversione di San Paolo-, Caravaggio (1600-1601)

  聖パウロの回心: ダマスコへの途上において、「サウロ、サウロ、なぜ、わたしを迫害するのか」と、天からの光とともにイエス・キリストの声を聞いた、その後、目が見えなくなった。アナニアというキリスト教徒が神のお告げによってサウロのために祈るとサウロの目から鱗のようなものが落ちて、目が見えるようになった。こうしてパウロ(サウロ)はキリスト教徒となった。この経験は「サウロの回心」といわれ、紀元34年頃のこととされる。一般的な絵画表現では、イエスの幻を見て馬から落ちるパウロの姿が描かれることが多い。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)”パウロ - Wikipedia”

カラヴァッジョ「聖ペテロの磔刑(1600年-1601年)」
Crocifissione di San Pietro, Caravaggio (1600-1601)

  聖ペテロはガリラヤ湖畔の漁師だったがイエスの最初の信者(使徒)の一人となり、十二使徒の代表格とされる。布教中ローマにおもむき、ネロ帝の迫害に遭遇し、殉教した。ペテロは十字架にかけられようとしたとき、自分は一時、イエスを裏切った使徒であるから、十字架にかかるのは恐れ多いと言い、「逆さ十字架」にかけてくれと言って、その通りになったという(ただしこれは3世紀ごろにできた話である)。出典:”世界史用語解説 授業と学習のヒント(ペテロ - 世界史の窓)”のサイトより

  カラヴァッジョ(Caravaggio1571年-1610年)は1593年から1610年にかけて、ローマ、ナポリ、マルタ、シチリアで活動した。あたかも映像のように人間の姿を写実的に描く手法と、光と陰の明暗を明確に分ける表現は、バロック絵画の形成に大きな影響を与えた。出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)”ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ- Wikipedia”より

13.主祭壇

   教皇グレゴリー9世はサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂の横のカラ・サンタScala Santa(聖なる階段)の上部にあるサンクタ・サンクトラム礼拝堂(Sancta Sanctorum)から荘厳なビザンチンの聖画像(イコン)を移した(1231年)。出典:サンタ・マリア・デル・ポポロ教会正式ホームページより

​主祭壇
「マドンナ・デル・ポポロSanta maria del pop」
「マドンナ・デル・ポポロ(市民の聖母)Santa maria del pop
13世紀板絵

   ローマ教皇シクストゥス4世(在位:1471年 - 1484年)の治世下で修復拡張工事されてルネッサンス風になり、その後17世紀にベルニーニが再び改修工事をし、現在見られるバロック風の装飾が施されたのです。出典:上野真弓さんのサイト”サンタ・マリア・デル・ポポロ教会のすべての見所完全版 ”ローマより愛をこめて ”より

 14.彫刻家ジョヴァンニ・バッティスタ・ジスレーニの墓                         

​     Tomba di Giovanni Battista Gisleni

​ 大理石の柱の左側がマリア・エレノーラ・ボンコンパーニ・ルドヴィージの墓。右側が建築家ジョヴァンニ・バッティスタ・ジスレーニの墓
バロック建築家ジョヴァンニ・バッティスタ・ジスレーニJiovanni Battista Gisleniの墓

 大変奇妙な墓がありました。私は奇怪な物にあまり興味がありませんが、帰り際に遭遇しびっくりしました。確かに、ローマの骸骨寺とか、カタコンベのようにヨーロッパの人は骸骨に引かれる人種なのかなと感じました。

 この墓はイタリアのバロック建築家ジョヴァンニ・バッティスタ・ジスレーニJiovanni Battista Gisleni(1600年 - 1672年)の墓で、1630〜1668年にポーランド王室の舞台芸術家、劇場監督、歌手、ミュージシャンでした。 彼の死の2年前、1670年に建築家自身によって設計され設置された。出典:Luigi Manfredi ”The tomb of Giovanni Battista Gisleni, Neque hic vivus and Neque illic mortuus (manortiz) ” YouTube