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ローマ美術紀行
カピトリーニ美術館訪問(その2) 2014/12/28および2016/12/30
前回はカピトリーニ美術館のコンセルヴァトーリ美術館とコンセルヴァトーリ宮殿の居室を中心に御紹介しましたが、今回はカピトリーニ美術館の新宮殿(パラッツォ・ヌオーヴォ)、及びカンピドーリオの丘から眺めたフォロ・ロマーノを御紹介します。
【新宮殿(パラッツォ・ヌオーヴォ)】
・中庭 Cortile
「マルフォリオの噴水」(大洋の像)
Statua colossale restaurata come Oceano: Marforio
マルフォリオの噴水は、紀元1~2世紀のローマの作品です。カンピドリオの丘の麓であるフォロ・ロマーノのセプティミウス・セウェルス凱旋門、メルティヌスの牢獄 Carcere Mamertinoの近くあった。出典:公式カピトリーニ美術館ホームページ
この像が「物を言う像」であると言われるが、実際に喋るわけではない。庶民が政治に対する苦情や告発をこの像に貼り付けたからである。そのときに「MARE Di FORO」フォロの海、という名が刻まれていたのでマルフォリオという名になったと考えられる。参考文献:カピトリーニ美術館の魅力 彫刻(7)マルフォーリオ
・新宮殿2階(日本式呼び階)入り口
ギリシア人とアマゾンネスの間の戦闘シーンが彫られた石棺
Sarcofago con scena di battaglia tra Amazzoni e Greci
製作:西暦100~150年とか西暦180~190年とか言われている。
この石棺が置かれた正確な場所は分からないが、日本で言う2階にあったように思う。
アマゾンネスはギリシア神話の中で出てくる黒海沿岸に住んでいたと伝えられる勇猛な女族
・2階ギャラリーGalleria
負傷した戦士として修復された円盤投げ選手のトルソー
Torso di Discobolo, restaurato come guerriero ferito
一般に「円盤を投げる男」「円盤投げ選手」「円盤投げ」と言われている作品。
古代遺物として発掘されたのは胴体部分だけだったためか、これを修復・補足したフランス人彫刻家のPierre-Etienne Monnet(1658~1733年)という人物は、ペルガモンの遺跡の彫像(Little Barbarians)と同タイプのものと勘違いしてしまい、このような姿に仕立て上げてしまったのです。手足、頭部を失ったトルソ状態であれば無理もないことだとは思いますが、あまりにも壮大な勘違いですね。出典:プログ"N-012 円盤投げ全身像 | きょうの石膏像"
古代ギリシア彫刻家ミュロンのローマン・コピーですが、同名の彫刻が多く出土しています。確かにカピドリーニ美術館の彫刻は間違って修復したようですね。
カピドリーニ美術館・公式HPの題目『負傷した戦士として修復された円盤投げ選手のトルソー』からも、うかがえる。オリジナルはブロンズ像だったようで、こちらも現存していないそうです。出典:プログ"N-012 円盤投げ全身像 | きょうの石膏像"
古代ギリシアの彫刻家ミュロンが紀元前460年に彫刻した「円盤投げ」のコピー品(紀元1世紀)をフランス人彫刻家のPierre-Etienne Monnet(1658~1733年)が古代遺物として発掘された胴体部分だけのトルソ(手足、頭部がない胴体)を修復・補足した。彼はペルガモンの遺跡の彫像(Little Barbarians)と同タイプのものと勘違いしてしまい、負傷した戦士として修復してしまった。・・sekkouyaさんのブログより
ローマ美術館・マッシモ宮 「パロンバーラの円盤投げ」
’16/12/31 撮影
・雌鳩の部屋 Sala delle Colombe
この部屋は、"雌鳩のモザイク"から名付けられている。ティヴォリTivoli(日本語表記チボリ)にあるヴィッラ・アドリアーナ Villa Adriana から発見されたもの。
ティヴォリは、ローマの東約30kmに位置する。ヴィッラ・アドリアーナ Villa Adriana はローマ帝国ハドリアヌス帝が118?138年にかけて建てさせた広大な別荘跡で世界遺産でもある。参考資料:カピトリーノ美術館公式サイト、ウィキペディア、イタリア政府観光局(ENIT)公式サイトなど
雌鳩のモザイク
Mosaico delle Colombe
おそらく、紀元前2世紀、ペルガモンのソソスSosos of Pergamonの作品と考えられているものの複製。オリジナルという説もあるようだ(ホームページ"モザイク史年表 - So-net")。ペルガモンのソソスは現トルコのペルガモンで活躍したギリシャのモザイク作家、彼のオリジナルは残っていない。
舞台仮面があるモザイク
Mosaico con maschere sceniche
2世紀、ローマの7つの丘の一つアヴェンティーノ(アヴェンティヌスの丘)にあったデキウス古代ローマ浴場からの出土品、定かでない? 出典:公式カピトリーニ美術館ホームページ
鳩を抱く少女 Statua di fanciulla con colomba
ヘレニズム時代(古代ギリシア)における作品(紀元前3-2世紀)の複製。
出典:公式カピトリーニ美術館ホームページ
・ビーナスの部屋 Gabinetto della Venere
私が訪問した時、丁度「カピトリーニのヴィーナス」は貸し出し中、残念
「カピトリーニのヴィーナス」・・ウィペディアより
・皇帝の間 Sala degli Imperatori
フラビア・ジューリア・エレナの像
La statua di Flavia Giulia Elena.
フラビア・ジューリア・エレナはキリスト教を初めて認めたローマ皇帝コンスタンティヌス1世の母で、キリスト教により聖人「聖ヘレナ(St.Helen(a))」とされた人。
出典:ウィキペディア
・賢人の間 Sala dei Filosofi
賢人の間
(ローマ執政官(コンスル)と軍隊の指揮官)
ローマ軍隊の指揮官マルクス・クラウディウス
・マルケルスMarcus Claudius Marcellus
マルクス・クラウディウス・マルケルス Marcus Claudius Marcellus, 紀元前268年 - 紀元前208年)は、共和政ローマ期の軍人、政治家。第二次ポエニ戦争でハンニバルに対して果敢に戦闘を仕掛け「ローマの剣」と称された。・・出典:ウィキペディア
・ローマ神話の半人半獣である牧羊神 『ファウヌスの間』 Sala del Fauno
プロメテウスの神話が彫られた子供の石棺(紀元3世紀)Sarcofago con mito di prometeo
・剣闘士の間 Sala del Gladiatore
瀕死のガリア人
Statua del Galata Capitolino
ギリシャ人プラクシテレスの原作のローマ時代の模作・・ウィキペディア
ペルガモン王のアッタロ1世がガリア人を倒した記念に制作された、ギリシャ彫刻をモデルにした紀元前3世紀の大理石作品。
ヘレニズム文化(紀元前323年~紀元前30年)の中心地の一である古代都市ペルガモンのオリジナルからのコピー。
現在のローマ日本大使館から徒歩1分ほどにあるサッルスティウス庭園 Holti Sallustianiという遺跡(紀元前1世紀のローマの政治、歴史家の ガイウス・サッルスティウス・クリスプスGaius Sallustius Crispusが造り、後にローマ皇帝の別荘となっていた)から出土したの。
出典:EDICOLANTEのイタリア小さな可愛い街の旅行記とコラム、
【カンピドーリオ広場の奥から眺めたフォロ・ロマーノ】
カンピドーリオ広場にある市庁舎の裏に進むと眼下にフォロ・ロマーノが見える。現代から古代ローマにタイムスリップしたようで、感動した。元日1月1日は多くの美術館が休みのところ、ここは無料で、いつでも見える。歴史を感じさせてくれるお奨めスポット、穴場です。
左から"マメルティヌスの牢獄"の上に立っているサン・ジュゼッペ・デイ・ファレニャーミ教会(ベージュ色の建物)、サンティ・ルカ・エ・マルティーナ教会(ドーム型)、クーリア・ユリア(元老院議事堂)、右端にセヴェルスの凱旋門
左奥に元老院議事堂(クーリア・ユリア)、手前にセヴェルスの凱旋門
クリア・ユリアは古代ローマ時代フォロ・ロマーノに建てられた元老院議事堂。ガイウス・ユリウス・カエサルが、元老院議員ファウストゥス・コルネリウス・スッラが建てた先代の議事堂クリア・コルネリアを、紀元前44年に改築したものである。カエサルがポンペイウス劇場で暗殺された。その後、ローマ帝国初代皇帝アウグストゥスが、紀元前29年に事業を完遂した。フォロ・ロマーノで最も古く、損傷を受けていない唯一の建物。7世紀に教会へと姿を変えたことで保存されるようになった。出典:ウィキペディア、"KLM 旅行ガイド - 古代ローマの名残り"
セヴェルスの凱旋門はフォロ・ロマーノの北西端にある白い大理石製の凱旋門で、皇帝セプティミウス・セウェルスとその息子カラカラとゲタの第6次パルティア戦争での勝利を記念して紀元203年に建設された。
左からクーリア・ユリア(元老院議事堂)、セヴェルスの凱旋門、フォカスの記念柱、右にジュリア(ユリウス)のバジリカ、右奥にカストルとポルックスの神殿、さらに奥にパラティーノの丘
左からフォカスの記念柱、ジュリア(ユリウス)のバジリカ、奥にカストルとポルックスの神殿、手前にヴェスパシアヌスの神殿 その後ろにサトゥルヌスの神殿
フォカスの記念柱 は、西暦601年、東ローマ帝国皇帝フォカスを称えて、ローマ中心部、フォロ・ロマーノのロストラ(演説台)の前に建立され、フォカスに献納または再献納された石柱(コロンナ)である。この記念柱は、古代にあって、フォロ・ロマーノに加えられた最後の建造物である。出典:ウィキペディア
ジュリア(ユリウス)のバジリカはフォロ・ロマーノにあった公会堂(バジリカ)。火災によって消失したバシリカ・センプロニアの跡に造営されたバシリカ。ガイウス・ユリウス・カエサルによって起工された(皇帝アウグストゥスが12年に完成)ため、バシリカ・ユリア(ユリウスのバシリカ)と呼ばれる。5廊式の巨大建築物で、4つの民事法廷が開設されていた。出典:ウィキペディア
大理石で出来た3本柱がカストルとポルックスの神殿です。紀元前495年、レギッルス湖畔の戦いで共和政ローマ軍は勝利します。伝説によると双子神のカストルとポルックスがこの戦いに勝利をもたらしたとされ、彼らに捧げるため建てられた神殿です。出典:HP"これだけは押さえておくべき!世界遺産フォロ・ロマーノの見学ポイント16"
左手前からヴェスパシアヌスの神殿 、サトゥルヌスの神殿、右手前にコンセンテス神(12最高神)の柱廊の一部
左手前からヴェスパシアヌスの神殿 、サトゥルヌスの神殿、右手前にコンセンテス神(12最高神)の柱廊の一部
ウェスパシアヌス神殿は、ローマのフォロ・ロマーノ西端、サートゥルヌス神殿とコンコルディア神殿の間にあった神殿である。ウェスパシアヌス帝と息子のティトゥス帝を神格化して祭っている。ウェスパシアヌスの死後、ティトゥス治世下の紀元79年に着工した。ティトゥスの弟ドミティアヌス帝が紀元87年ごろ完成させ、ティトゥスとウェスパシアヌスを祭る神殿とした。出典:ウィキペディア
サートゥルヌス神殿は、ローマ神話の神サートゥルヌスを祭った神殿で、フォロ・ロマーノの西端にある。王政ローマの最後の王タルクィニウス・スペルブスが建てたか、ティトゥス・ラルキウス・フラウスとか言われている。また、ガリア人による放火(紀元前4世紀初めごろ)の後にも修復されている。共和政ローマ時代の国有財産をここに保管していたため、「アエラリウム (Aerarium)」すなわち「国庫」とも呼ばれた。現在の廃墟は3代目のサートゥルヌス神殿であり、2代目は283年に火災で破壊された。出典:ウィキペディア
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